村上春樹氏のノルウェイの森の映画化・封切り公開について

      
    
     
                                             *ストーリーのネタバレあり

たしか、上梓当初、村上春樹氏が「映画化は認めない」としていたと記憶しているが、時代の流れか、(ユン監督の粘り強い交渉で)あっけなく映画化に。ただ、これは、通常の原作を映画化するのとはやや違う。生きてる限り、常にノーベル文学賞候補であり、すでに、世界的に固定読者の多い人気作家の金看板的作品である。ヒットとは別次元で作らないと、難しいハードルになる。

純文学というジャンル、発行部数、大ヒットでいうと、「ノルウェイの森」は、片山恭一氏の「世界の中心で、愛をさけぶ」と比べられがちだ。ただ、両者はテーマも時代背景も違いすぎる。「ノルウェイの森」は、赤と緑の装飾のインパクトはあったものの、ドラマや映画などとのメディアミックスはなされていない。インターネットも携帯電話も普及してない時代である。初版から10万部を超えてからは、単純に、話題性と装飾の訴求力で売れた。そして、上梓から20年以上経った今回が、本格的な初のメディアミックスである。とはいえ、「村上春樹」、「ノルウェイの森」という単語自体が、すでに一人歩きして、巨大なブランド化している。いまさら、メディアミックスなどしても、逆に映像が負けてしまい、ハウリングして反発してしまうのではないか。(もちろん、作家、制作者にメディアミックスなどの意図がないのは承知である)

テーマもディープだ。「ノルウェイの森」に流れるペーソスは、夏目漱石の「こころ」に近い。話の展開は、主人公の渡邊君の親友・キズキが自殺し、残されたキズキの恋人・直子に、渡邊君が片想いする。だが、直子は、渡邊君をまるで愛してなかった。そして自らも破綻して自殺してしまう。かいつまむと、作品は、そんな虚しさ、愛するものを失う喪失感を描いている。手軽な今の時代にしては、やや重たいテーマでもあり、ベタな「純愛」、流行(はやり)の「がんばりましょう」的なものでもない。かつ、話は、展開の起伏が少なく、眠くならずにどのように映像で描いていくのか注目される。

原作のある作品の映画化は、当然、作品内容を知られている。漫画であれ、小説であれ、原作ファンの多くは、映像を見て、原作と比較する。もっというと、自分なりの解釈の共感や嗜好とのズレを探す。そして、人気作品ほど、表現しきれずにミスマッチして失敗するのがセオリーである。「ノルウェイの森」の場合は、単なる人気作品ではなく、手のかかる扱いづらい作品である。その確度は高いといえよう。言い換えると、映画 (映像)対 「ノルウェイの森」の構図ともいえようか。

配役は、渡邊役に松山ケンイチ、直子役に菊地凛子という、アクの強い、インパクトある役者を起用してる。これも、ギャンブルだ。手軽なリスクとしては、監督のイメージに合致するまで役者を探し、新人を起用するという選択肢もあったはずだ。それでいて、デジャブの強い加瀬亮をベタで起用していないあたりは、チャレンジャーであり、外国人ならではのチョイスか。とりえあず、(ミスキャストかどうかではなく)ミスキャストのバイアスは避けられまい。

時代が変わっても、人間の本性、喜怒哀楽の本質は変わらない。「ノルウェイの森」は、インターネット、携帯電話もない、そう遠くない時代の日常生活の設定だが、それが上手く落とし込まれてマッチするのか、違和感があるのか。どのようにして、現代に照らしていくのか。ユン監督の持ち味であるモネ調の色彩感、映像美で、どこまで表現できるか。単なる(制作サイドの)自己満足で終わるのか、それとも、どこまで原作のテーマと対峙して、貫き抜けられるか。注目点の尽きない作品である。


【ここの古参・常連さんでない、初回、通りすがりの方へ】
*記事は、滅多に映画など見ないド素人が、自分勝手な思い込みと独断で書いてます。
*記事は、素人の書いた個人的かつマイノリティなメモレベルです。(兼忘備録)
*時間の都合上、未校正でUPしており、誤字脱字が多々ございます。
村上春樹ノルウェイの森の好き嫌いは論じてません。
*12/10現時点で、筆者は、映画を見てません。
*レアケースのエントリーです。宣伝ではございません。
(映画化が、果たして、失敗するのか成功するのかが趣旨です)