いまさらジーコ日本代表監督について・・・

数年前になるが、以前、「ここが変だよ日本人」というバラエティ番組があった。いま、ジーコがその番組に出演したら、いかにわれわれ日本人とジーコの考え方が真逆であるかが分かるのではないか。

ポーツマスコミも、きちんとしたラテンの文化・習慣を理解した上でジーコ批評をしないと、ただのラテン社会への批判でしかなくなる。なにより答えを用意して、それに近づけようとする日本と、動きの中で答えを見つける出来高制のブラジルでは、同じ定規になるはずもない。

両者の違い。それをジーコを例にして探ってみよう。

たとえば、「勝ってるチームをいじるな」という台詞。

前回ワールドカップ日韓大会、決勝トーナメントの日本対トルコ戦後にジーコが試合総括で放った一言である。この一言そのものは単純でわかりやすく、なんてことないのだが、ラテンはこの辺を特に気にする。選手交代に対して、ジーコは、いや、ラテンは気を使う。たとえば、プロ野球で毎回、ヒットを打たれながらも、なんとか零封している先発投手を交代させないのと同じで、いい流れのときは絶対にいじらないでバランスを保つ。流れが悪くなれば、すこし変化をつけて良いバランスを呼び込む。よく、ジーコの選手交代が遅いとマスコミから批判されるが、この辺のラテン特有のバランスが原因になっているだろう。

これはジーコだからということではなく、ラテンはすべてそうだと考えてもおかしくはない。きっと、一流のパチプロ、一流の株式トレーダーだったら、ジーコのやり方を多少なりとも理解できるのかもしれない。あくまでラテンは一発勝負の勝負師でしかない。そもそも、ラテン社会にはテストと本番の区別はない。すべてが本気モードであり、常に真剣である。ラテンの格闘技が強かったり、サッカー日本代表のシュートがなかなか入らないのもこの辺に起因しているのかもしれない。

また、東アジア選手権ジーコがスタメン11人そう入れ替えしたが、これを批判する人は、あながち間違いではないが、ラテンではなにも珍しいことでなく、こういった手法を多く用いる。要するに、悪い流れを断ち切って、うまく運やリズムを回転させるためにそうする。たとえば、ユーロ2004の開幕戦で白星を落としたポルトガルルイス・フェリペ・スコラーリ監督がルイコスタ、フィーゴ、フェルナンドコウトを含めたレギュラークラス7人を総入れ替えする荒療治をして、わずか一週間で見事にチームを刷新したのはかっこうの例であろう。

もちろん、日本人には体育会系の制裁のノリに写ってしまいがちだが、彼らにはごくごく普通のことである。ある種、物事が上手く行かない場合の気分転換にも近い。それを代表チームでやられたらたまらないかもしれないが、ラテン人監督であればそうしてしまう可能性は高い。もし、本大会緒戦のオーストラリアに大敗したら、全員そう入れ替えとまでいかずとも、きっと、梃入れをやるであろう。

さて、大会中のジーコ更迭は可能性として、どうだろう。2連敗でも内容によっては、あるかもしれないが、ただ、ジーコは監督就任してから、これまで一度も3連敗をしていない。これは不思議だが、つまるところ、監督とは、勝ち運があるかないかである。高校バスケ界の常勝校である能代の初代監督が二代目監督に引き継ぐときの人選基準として、指導力、人望、実績以上になにより重要視したのが、この「勝ち運」だったそうである。ジーコにはこの「勝ち運」があるだろう(すくなくとも、トルシエ、山本、岡田監督よりはあるかもしれない)。こればかりは努力や根性ではどうしようもないもので、もって生まれたものでしかない。

しかし、われわれ日本人はこういった運だのみをひどく嫌う。日本人の心理としては、安心して観ていたい。だから、ひやひやするのはたまらないし、ついつい批判もしたくなる。しかし、勝負とは本来、安心して観るものではない。つまるところ、ブラジルのような強力な戦力があっても、運がなければ負ける。

ラテン人の口癖として「運がなかった」という言葉をよく耳にする。また、日本ではありえないことだが、ラテン人はこの運を実力と同等にみなす。参考までに、日本はテレビドラマで主人公が努力の末に栄光をつかむのが良しとされるが、ラテンのテレビドラマでは、主人公が努力なしに宝くじに当たって栄光をつかむのが良しとされるといった類も散見する。日常でも、なんであれ、ラテンは「スエルテ(幸運を!)」という言葉を挨拶のように多用する。

つまるところ、今大会の日本は「運」がキーワードなのかもしれない。
自殺点、退場、ミスジャッジ、天候、バー直撃、ポスト直撃、乱入者―。
どういった運が日本に味方したり、はたまた、逆に運に見放されるのか。

とりあえず、日本に幸運を!